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zoom RSS 群衆の一人として。

<<   作成日時 : 2008/11/02 19:43   >>

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元の議論は随分と長いことやってらっしゃるようで、いまさらわたしに言えることはない。
(いや、あるかもしれないが面倒くさい。)

たぶん越権さんには通じないと思うけど(finalventの日記)
finalventさんのはてなブックマーク観について(「えっけん」こと越後屋健太のにっき)

という訳で、そこに言及しているDanさんのエントリの、更に一部に言及。

群衆の責任、いずこ - 書評 - ウィキペディアで何が起こっていのるか(404 Blog Not Found)
ここからは私の意見で、かつて「サンデージャポン」や「朝まで生テレビ」でも言ったことであるが、ソーシャルメディアの責任の「本籍」は、発信者でもなければ場の提供者でもなく、実は受信者である。「真に受けた方が悪く」、「だまされた方が悪い」。


ブログ書きの端くれとしてのわたしは、このコメントに首肯せざるを得ない(もっともわたしが受信しているソーシャルメディアからの情報なんて多寡が知れているが)。ただ、それは受信する側に求められる覚悟のようなものであって、発信者もしくは場の提供者を免責する根拠にするにはならない。というかできないだろう。ついでに言うと、「そうできない事」自体にわたし自身は賛成である。

「アパッチ族」という群衆を撃退するのではなく、「群衆」と共存する道は本当にないのだろうか。


わたしは、個人としてのわたし自身を信用し信頼しているが、群衆の一人としてのわたしをそこまで信用しきれない。ましてや一時期もてはやされた『群衆の叡知』(字、合ってます?)なんてのは都合のいい詭弁であると思っている。確かにそれが結実したように見えるものは世の中に存在する。が、それは幸運な例外であり、かき回された泥水の中から僅かに汲み取られた上澄みに過ぎないのではないかと思う。

話がそれたので元に戻す。

Danさんの言う「アパッチ族」は客観的には存在しないように思う。それは群衆を構成する個人のうち、ある選択をし行動を起こした者たちに対して、それに対立(もしくは中立でもいいが)個人が主観的に与える属性を表す言葉ではないのか。

だから、それを「撃退することなく、「群衆」と共存する」ことは不可能だとわたしは思っている。撃退するコストは「群衆」と共存する上で必要なものだ(もっとも、撃退以外にも「戦略的撤退」とか「無視」とかいう手段も選択しうるが)。そして、その認識が、先に述べた『「そうできない事」自体にわたし自身は賛成』する理由でもある。コストの発生責任を受信者のみに問いうるか?答えは否であるべきだろう。

もちろん、共存できる道があるのならそれに越したことは無く、それを考えていこうという姿勢そのものを否定するつもりは毛頭無いことは、最後に申し添えておく。

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